NITSニュース第159号 令和3年1月22日

学校教育全体を通じての道徳教育における教師の課題と可能性

くらしき作陽大学 教授 秋山博正

道徳教育は「教育の中核」をなすものであり、道徳教育を充実させれば児童生徒の学力は伸び、諸活動も活発になります。 ところが、道徳教育は必ずしも優先的には行われていません。 その一因は、道徳教育の肝要への誤解やその看過にあります。 看過されていることの一つが、教師は誰でも道徳教育の担い手であり、自分自身の道徳性育成が教師の課題だということです。 それは教師に負担を強いるものではなく、教師の可能性を実現することです。 本論ではその事情を明らかにします。

さて、学校教育における道徳教育の目標は、児童生徒の道徳性育成にあります。 それには判断基準向上への指導支援という一面があります。 指導支援を行う場合、言語による指導支援よりも有効なのが、ナマの人間の具体的な在り方生き方です。 なぜなら、コミュニケーションでの伝達内容の7割は非言語的内容だからです。 たとえば、親切という言葉を理解できない幼児でも、親切な行為を見れば親切の意味は感じられるし実行もできます。
そして、学校教育における児童生徒の判断基準向上の手がかりの最たるものは、教師の人間としての在り方生き方です。 むろんそれは自明のことですし、教師がそれを意識しておけば事足りるとも考えられます。 けれども常時それを意識するのは困難ですし、児童生徒の目は至る所にあるので誤魔化しはききません。 だとしたら、教師は児童生徒に求める判断基準に基づいた在り方生き方、すなわち道徳的な在り方生き方を自らするしかありません。
とはいえ、生身の教師にはそうできないときもあります。 その場合、重要なのは道徳的に生きようと努める教師の姿勢です。 児童生徒は、その姿勢に道徳的であることの大切さを感じるのではないでしょうか。

ところで、知らないことや未経験なことは適切には指導支援できません。 したがって、児童生徒の道徳性向上を適切に指導支援しようとすれば、教師は道徳性向上の意味、その結果、そのための方法などを児童生徒に先立って経験・習得しておく必要があります。 しかも道徳性が衰退しうることを顧慮すれば、それらの経験・習得は、過去のみならず現在においても継続して行う必要があります。 それゆえ、『学習指導要領解説 特別の教科 道徳編』は、道徳性育成が児童生徒のみならず教師の課題でもあると示唆しているのでしょう。

以上の二つの理由から、教師が自身の道徳性を育成し続けなければ、道徳教育が成立しないことは明らかです。 なお、道徳性育成を負担とみる向きもあります。 しかし、道徳性育成は業務量の増加を求めてはいません。 なぜなら、まず必要なのは、児童生徒に求める在り方生き方を教師自身がしているか点検し、そうしようと努めることだけだからです。 それは、初めは面倒でも、繰り返しているうちに慣れ、慣れれば好きになり工夫できるようになります。 その結果、道徳性が養われ、多少なりともよりよく生きられるようになります。 極論すれば、教師が業務として取り組んだことが、生涯の財産として結実するのです。 教師の課題への取り組みにより、可能性にすぎなかったことが実現するのです。

ちなみに、道徳的であるか否かは道徳教育の担い手の資格とは無関係です。 むしろ道徳的でないからこそ、道徳教育を担うべきです。 なぜなら、道徳教育に関わればこそ、自身の不足を認識でき自己変革ができるからです。 道徳教育から離れてしまえば、取り付く島を失ってしまいます。 ともあれ、道徳的に完璧な人などいません。 その事実も、道徳性育成が教師の課題である理由の一つです。