NITSニュース第130号 令和2年6月19日

道徳科における『対話的な学び』

兵庫教育大学 教授 谷田増幸

道徳科が完全実施されて小学校で3年目、中学校で2年目を迎えます。 道徳科の指導や評価についてみなさんはどのような印象をおもちですか。 特に、「評価」については初めて指導要録等への記述が求められたこともあって、戸惑いの声も聞こえてきました。 けれどもその見取りや記述を充実させるためには、結局は「指導」にかかっているのだという声を最近はよく聞くようになりました。 これからは「評価」に耐えうる「指導」の在り方こそが、改善のポイントになりそうです。

そこで求められるのが授業場面、特に中心場面(ヤマ場)における「対話的な学び」です。 ではどうすれば「対話的な学び」が深まるのでしょうか。 これはやさしいようで案外むずかしそうです。 筆者もかかわってきた「兵庫県道徳教育実践推進協議会」「道徳教育拠点校育成支援事業」の推進地域等の協力の下にまとめられた冊子1)を手掛かりに、その要諦について考えてみましょう。 そこでは、〈「対話的な学び」を深めるために〉 の箇所に「受容」と「問い返し」という2つのキーワードが示されています。

授業の対話場面で児童生徒の発言を「受容」するとはどのようなことでしょうか。 例えば、まずは児童生徒と同じ目線で「聴く」姿勢を保つことが出発点になりそうです。 またその際に、「なるほどね!」「そう思ったのか!」「そうだね!」(※註1)などと肯定的に受け止めることも大切なことかと思います。

では、「問い返し」をするとはどのようなことでしょうか。 確かに、児童生徒の思いや考えをしっかり受け止めたとしたら、その理解や納得を通して聞いてみたいことが浮かんできます。 そのときに「何を言いたいのだろうか。」「もっと詳しく聞きたいな。」(※註1)などと、思ったことを児童生徒に素直に言葉にして「問い返す」ことだと捉えられるでしょう。 「問い返し」が“詰問”になってはいけませんが、この「問い返し」が授業での考えの深まりを左右するともいえそうです。

では、どんなときに「問い返し」をすればいいのでしょう。 冊子では、「発言の意図を明確にさせたいとき」「さらなる考えを聞きたいとき」「考えを深めたいとき」「考えを広げたいとき」「ねらいに迫りたいとき」(※註1)などの場面を示して、実践事例で具体化させています(詳細、略)。

でも、この場面がわかったからといって、教師が授業のヤマ場でうまく立ち振る舞えるとは限りません。 このヤマ場において児童生徒を「深い学び」へといざなうためには、今一度時計の針を巻き戻して、授業構想の段階で何を考えさせようとしていたのかということに戻らなくてはなりません。 そこに「問い返し」の拠り所もあるからです。

端的に言えば、それは「中心発問」(※註2)で何を問おうとしていたのかということです。 振り返ってみて、「中心発問」は、児童生徒にとって例えば「考えたくなる問い」「考えざるを得ない問い」「これまでに考えたことのないような問い」(※註1)になっていたでしょうか。 そのような「考えるに値する問い」になっていれば、児童生徒の反応に対しても「聞いてみたい問い」がまた素直に浮かんでくるはずです。 本来的には「考えるに値する問い」(「中心発問」)は、すでに「教材の読み(分析)」「ねらいの明確化」「児童生徒の道徳的諸価値の理解」(※註1)などの入念な吟味のもとに立案されています。 そこまで「問い返し」の拠り所を辿ると、それがいかに弾力的で強固な柔構造になっているかがわかります。

こうして教師は、児童生徒の発言を「受容」しつつ、一方で「中心発問」や「ねらい」という構想の源流に遡りながら、当意即妙に「問い返し」の場面を慮るという多元的な「対話」の舞台に立っているのです。 さて、あらためてどのように振る舞えばいいのでしょう。

けれども実はそこまでしても、いやそこまで辿ってきたからこそ、私たちは、「私たちにはわからないもの」「私たちを戸惑わせるもの」「私たちには冒しがたいもの」などに出会うことになります。 その正体は一体何なのでしょうか。 きっと、日常からすればありきたりのことです。 でも、それはまさに「今この現前に子どもがいる」という事実、そして「この世界においてこの一瞬一瞬を共に在る」という事実です。 この事実の前に、私たちは驚き、立ち止まり、狼狽え、そしてまた新たな了解を得ようと藻掻くのです。

「そこに存る者」同士による「対話」(あるいは「共振」)によって発見されるものは、単に今までと意匠の異なる共通理解ではなく、「在ること」に対する「奇跡=驚き」から生まれる「respect(敬意)」そのものだと考えられます。 この発見が、求められるべき道徳科授業の“原風景”のように見えるのです。 ひょっとしたらこの一瞬の風景を見たいがために、私たちは学び続けているのではないでしょうか。

【註】