NITSニュース第128号 令和2年6月5日

学校と地域との連携……小難しい本質論にお付き合いを

独立行政法人教職員支援機構 つくば中央研修センター長 清國祐二

学校と地域との連携は「社会に開かれた教育課程」の実現には欠かせません。 コミュニティ・スクール(学校運営協議会の設置)はその重要な手段です。 地方創生を実現させるために、「地域とともにある学校」は持続可能な社会づくりに連関して有効です。 しかし、「地域のため」に学校は動かず、「子供のため」になってはじめて学校は動くようです。

つい先だって、オンラインおやじの会(関東連絡会)が開催され、所属歴18年の筆者も初参加しました。 そこで衝撃的な報告を聞きました。 その学校では、校長と副校長の人事異動が重なり、新たに赴任した校長から「今後一切おやじの会が学校を利用して行うイベント等はその開催を認めない」と言い渡されたようです。(このような高圧的な口調ではなかっただろうと思います。)

東京都にはいくつか本テーマでトップランナーだった自治体があります。 地域住民の層の厚さや企業等の協力、素晴らしいコーディネーターの存在に羨望のまなざしが向けられました。 受入側の学校も、管理職の努力により教職員へ理解が浸透し、学校をあげて地域との協力関係が築かれていました。 コーディネーターの人を動かす「魔法の言葉」は、今でも強く印象に残っています。

そんな学校でも一夜にして「断絶」が起こってしまったのです。 一方的な情報ですので、ニュートラルな判断はできません。(そのおやじさんも学校には同情的でした。) 働き方改革がそうさせたのでしょうか。新型コロナウィルスへの対応が影響したのでしょうか。その他の問題が発生したのでしょうか。 おやじの会が主催しPTAが協力する恒例のイベントは、参加する児童や保護者にはすこぶる評判がよかったらしいのですが。

一方で、NITSニュース125号(5月15日号)でお知らせした、香川県高松市立鶴尾小学校の書き損じ・未使用葉書の寄付を募る取組は、学校の願いと地域の思いがつながった好事例だと思います。 学校が自己完結しないことが、また願いを叶えるために周囲の力を結集させることが、子供の成長を支えることにつながるのです。 かなり大げさに言えば、「私たちが向き合うべき予測困難な課題に、諦めることなく挑戦する態度を育成する」ことを学校目標のひとつであると言うのであれば、私たち自身は何をすべきなのでしょうか。 それを身近な課題で取り組んだのが鶴尾小学校だったと考えています。 一人の百歩ではなく、百人の一歩を願って。そんな小さな実践を紡いでいくことが大事なのだろうと思うのです。

同じく高松市男木島の事例を紹介します。 高松港からフェリーで40分、人口170人の小島です。人口減少で子供がいなくなり、休校となっていました。 そこに瀬戸内国際芸術祭の開催がひとつのきっかけとなり、Uターン家族の行動・発想・魅力が人を引きつけ、家族での移住者がにわかに増えました。 平成26年に小学校と中学校が再開し、保育所も併設されました。 そこには興味深いエピソードがあるのですが、詳細はまたの機会に譲ります。

この島は「学校があって子供が通う」のではなく、「子供がいて教育が必要だから学校が再開された」のです。 地域が学校を求め、行政がそれに応えたわけです。 再開に関わった当事者には責任が発生し、地域が学校に参画するのは当たり前の営為と受け止められました。 このような学校と地域の関係性をどのように受け止めるでしょうか。

物事は一旦常識になってしまうと、疑うことはしなくなります。 前例踏襲に異議を唱える「考えている人」は変わり者で、「考えない人」が波風を立てない常識人なのです。 同じく、制度も一旦できてしまうと、人はそれに依存するよう仕向けられます。 さらに要求の質も量も増大し、自助や共助で解決するよりも制度を巨大化させた方が合理的だと考えてしまいます。(I. イリッチ『脱学校の社会』などが参考になります。) 思い当たることはないでしょうか。

本旨が逸れたように思われるかも知れませんが、そうではありません。 学校を権利として考えれば、学校の設置を求めるのは地域住民です。 彼らは当事者であり、ステイクホルダーなので、学校に関わることは自然です。 公立学校の設置者から考えれば、設置するのは地方公共団体(私立学校は学校法人)であり、その団体の構成員は地域住民となります。 本質的に「学校と地域との連携」の必要性や在り方は自明なはずです。 ただ、制度が高度に確立した中では、そのような議論は正当性が認められづらいようです。

現在、教職員支援機構の調査研究プロジェクト(リーダー:清國)が、実態に即した議論を進めようとしているところです。 かなりの難敵ですが、知恵を結集させたいと考えています。