NITSニュース第71号 平成30年12月14日

いじめの問題に取り組むためのストラテジ-~『チ-ミング集団』の創造~

愛媛大学 教授 平松義樹

夏目漱石の小説『坊っちゃん』にバッタ事件と呼ばれる挿話があります。宿直を仰せつかった坊っちゃん先生が寝ようとすると、蒲団の中にバッタが数十匹……寄宿生たちのいたずらであったということが判明する事件です。未読の方は、一度読んでみてくださいね。

この学生たちの処分をめぐって職員会議が紛糾します。「厳重な制裁を加えるのは返って未来のためによくない」、「あまり厳重な罰などすると返って反動を起こしていけない」という穏健派と、「もし反動が恐ろしいの、騒動が大きくなるの、と姑息なことを行った日には、この弊風はいつ矯正できるかわかりません」との強硬派に分かれ激論が繰り返されるのです。

みなさんは、どちらの考え方に賛同されるでしょうか? こういう対立意見が生まれたときに、みなさんの学校では、どのような解決方法を取られているでしょうか? 一般的に対人的葛藤の対処行動は、「回避・競合・譲歩・妥協・協働」に分類されるそうです。この中でいじめの問題の解決のためには「協働的職場風土」の創造が重要だと考えます。

いじめは、個と集団の関係性の中で起こり得る現象です。人間社会において、どんな集団にも、排除行為や制裁行動がなくならないのは、集団が生存し続けるための何らかしらの心理的原因があるからではないでしょうか? 個と集団(学級や部活動)の関係性を考える時に、社会唯名論を唱えたマックス・ウェ-バ-と社会実在論を唱えたエミ-ル・デュルケムの考え方が参考になりそうです。

ウェーバ-は「社会は存在せず。存在するのは個人の集合だけ」という考え方を示し、個々人の行為に着目し、その動機を理解することで、制度や組織の成立過程を解明しようとする立場に立ちます。デュルケムは、「個人を超えた『社会』が実在している」と示し、一つの有機体としての社会が個々人の行為や考え方に作用する。個人の外にあって個人を拘束する集団に共有された行動・思考様式があると主張します。
この二人の先哲の考え方を学級づくりに例えると、「はじめに子どもありき」なのか「はじめに学級ありき」なのかの学級担任の考え方の違いに置き換えることができそうです。極論すれば、前者が穏健派、後者が強硬派の考え方かも知れません。これを教育論に読み解くと、前者は「主語は子ども」、後者は「主語は教師」になりそうです。

しかし、個と集団の関係性に「正解」はありません。学校は、不確性・不測性にその特徴があります。これまで個々の教員の専門性の裁量が保障され、個々の教員が柔軟に多様に対応する『ル-スカップリング理論(ワイク)』によっていじめ問題に対処してきました。もはやこの「『オレ流』は通用しないのだ」という認識を、わが国のすべての先生が認識すべきだと思います。
深刻な問題を抱えている子どもたちは、複合的な困難に直面しているのです。その子どもたちを支援するためのストラテジ-の第一歩は、『チ-ミング(Teaming)』という新しい教員職場風土を創造するしかないのではないかと、私は考えています。