NITSニュース第55号 平成30年8月24日

湯水を注ぐよりも器を広げる

岡山大学教師教育開発センター 教授 髙旗浩志

現行の学習指導要領は暗記・再生型の学習観・学力観を前提にしています。そのため「教えてやる、憶えてこい」、「いまは解らなくて良い。とにかく慣れなさい」といった授業になりがちだと言われます。この反省から新しい学習指導要領は理解・思考型の学習観・学力観を基盤にしています。「おとなしく教えられる客体」をつくるのではなく、「自ら学習する主体」を育む授業へと転換する。日本の先生方が長らく不易として大切にしてこられたことを、本気で実現させようとしているのだと思います。

「自ら学習する主体」を育むためには、①意欲の差をつくらない授業、②わかったフリをさせない授業、③教師が教え切るのではなく子どもに学び取らせる授業であることが必要です。学習課題に対する個の疑問を安心して開かせ、教室全体に共有させ、ひとり一人や集団での試行錯誤を重ね合わせていく教師の技量が必要です。

また「学習規律」の捉えかたも変える必要があります。子どもたちの動きを縛って一定の方向へ枠づけたり、教師の指示を聞かせる決まりや方法や形式は「学習規律」ではありません。それは実効性が薄いにも関わらず繰り返される儀式(話形や穴埋め式ワークシートや計画性のない班学習等)にすぎず、かえって子どもを学習から疎外します。あるべき学習規律とは、課題に対して子どもが安心して自分の思いや考えを解放できること、それを下支えするものであるはずです。

学習指導において気がかりな子どもは2つのことが決定的に欠けています。ひとつは「語彙」であり、いまひとつは「自信」です。いずれも授業を通して育むべきものです。しかしその不足を「仕方ない」と諦めていないでしょうか。この捉えを変えない限り、授業は悪循環に陥ります。つまり「先生に教えてもらうことが勉強だ」、「授業で分からなくても、塾の先生に教えてもらったり、家で勉強すればいいや」、「分からなくて困っている自分を隠そう」、「分からない自分が悪いのだ」といった悪循環です。

この悪循環を超えるために、教師は学ぶ側に立ち続ける必要があります。まず「教師の言葉が子どもに届いているはずがない」という地点に立つことです。届いていないからこそ、どのように届いていないのか、どのように誤解や勘違いがあり、どのように聞き漏らしているのかを、謙虚に子どもに訊ねることができます。個から発した疑問や誤解や勘違いを全体で共有し、子ども自身で解決させ、個に返すことが必要です。特に授業の導入場面では、このことが有効でしょう。

次に、学び方に個性があることを受け容れましょう。「学び方の個性」は容易に教師には理解できません。だからこそ、子どもに訊ね、その子がどのように課題を解決しようとしているのかを言わせることができるのです。子どもは課題に対して生煮えの言葉をたくさん抱えています。これを吐き出させることで、子ども自身が整理整頓する「自己内対話」の機会を与えることができます。

「学ぶ」とは「分からない」と言えるところからはじまります。しかし学校では「分からない→恥ずかしい」に化けてしまいます。その積み重ねが、子どもに「分からない自分」を覆い隠す高度なテクニックを身につけさせてしまいます。そのテクニックが身につけば身につくほど、子どもは学ぶことへの意欲を喪失します。だからこそ、安心して「分からない」と言える状況を教師はつくる必要があります。

また、単に「分かりません」と言わせるだけでは不充分です。子どもの「分かりません」を教師が引き取って、さらに説明や解説をたたみかけると、かえって子どもは学習から逃げてしまいます。そこで「どのように分からないのか」をさらに問い返す「ほどよい不親切」が必要です。そして「分からないこととその内訳を、中途半端でも表現した方が、自分にも友達にも得になる」という成功体験を子どもに積み重ねさせることが大切です。

湯水のように知識を注いでも、器が小さければ溢れるしかありません。私たちは子どもひとり一人の器を広げるために授業をしています。その意味でも、新しい学習指導要領に照らした授業改善を図ることは大きなチャンスです。学習指導要領改訂という流行に惑わされてはなりません。この流行を利用し、将来の不易へと繋がるものを探り当てること、それこそが求められていることであり、実はとても楽しいことなのです。教師としての新しい自分を求めていきましょう。