NITSニュース第19号 平成29年10月27日

「学問する」こと(Ⅱ)

独立行政法人教職員支援機構 理事長 高岡信也

前回,江戸時代後期に庶民の間に空前の寺子屋ブームが起きた,という話を書きました。日本の近代化,つまり明治期の殖産興業,富国強兵政策の成功の背後に,日本人総体としての教育力と,その成果としての学力が極めて高い水準に達していたという事実があるのです。そしてその潜在力ともいうべき知的水準が明治の世に突然創り出されたものではなく,むしろ(明治新政府が躍起になって禁止した)江戸の寺子屋に育まれたと言う事実は忘れてはならないと思います。

さて,当時の学問とは,むろん儒学であり,そのまた一流派の「朱子学」のことです。陽明学や心学など,他流派もいくつかあったにせよ,公的な,従って,武士階級が学ぶべき学問の主流は「朱子学」でした。四書五経こそが学ぶべき価値のあるものであり,教養の源泉でした。当たり前のことですが,その四書五経は,文献に記されている。つまり文字(漢字)として,人々の前に提示されている。

庶民が,「学問する」と言う表現で子供たちを「読み書き,そろばん」の塾に通わせたのは,この本来の学問のとば口に(さらに言えば,そのとば口の入り口に)わが子を立たせたということでした。通常の「商工業の勃興が,庶民に3R'sを学ばせた」という教育史の常識のほかに,「武家の為(す)なるという学問」への憧憬と,時代の先端にわが子を立たせたいという教育意識が働いたのかもしれません。わが国の親という生き物は,すでにこの頃から教育熱の虜(とりこ)だったとすれば,これはこれでなかなか歴史的に由緒あるものと言えるのではないでしょうか。

かつて,島根県の小さな町の教育長を拝命している時のことです。町内の由緒あるお寺(創建300年はおろか,それ以上に古い,と伝えられる古刹)の蔵の奥から「とんでもない発見があった」という報告を受けました。蔵の中から,きれいに整理された様々な分野の書籍が出たというのです。和綴じの読み込まれた本,ということで,現役の和尚さんはじめやや興奮気味,ご先祖様のことですから「ここの数代前の住職は,ひょっとすると大変な学者,少なくとも蔵書家だったのでは……。」という話になりました。

市井に埋もれた大学者の存在がほぼ確定しようとしたその時,隣町の資料館の学芸員がやって来て,一笑に付しました。「これ,寺子屋の教科書です!」,「字が書いてあれば何でも手本にしたんですよ!」,「だから,農業書や女大学,庭訓往来……何でも揃ってます!」,「ここの住職さん,相当手広く寺子屋をやっていたんでしょうな!」という訳で,一件落着。「なぁんだ,塾やってたのかよ。儲かったのかね。」ちょっと騒いだ現役の住職さん,軽く咳払いをするほか手はなかったのですが,物流や宿場町であったその町の昔の栄華(?)を垣間見た瞬間でした。

男の子も,女の子も,こぞってお寺の経営する寺子屋に通っていた時代,お店(たな)の丁稚奉公や子守奉公に出る前に,親の元から寺子屋に通うのどかな日々,田舎の小さな暮らしの中にも,「学問する」ことが普通だった証拠でしょうか。もちろん,子供たちは,「学問する」気などなかったでしょう。ただただ,読み書きの合間に出される餅や駄菓子,友達同士の楽しい語らいや小競り合いの方がうれしかったのでしょうが……。