NITSニュース第232号 令和6年5月22日
灰色の視座
独立行政法人教職員支援機構 理事長 荒瀬克己
ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキンに「指輪物語」があります。瀬田貞二訳の評論社文庫には、細かい活字で登場人物たちの長い旅路がしたためられていて、まるで自分も同行するかのような気分になったのを覚えています。
この作品は、不可能だと言われていましたが、映画化されました。当時の最先端の技術を駆使した素晴らしい映像でした。
しかし、どちらが面白いかと問われれば、わたしは迷うことなく文庫本のほうだと答えます。ゴクリの気味悪さや悲しみを、映像もまた丁寧に描いているとは思いましたが、わたしの中には文字によって彼の姿と声が出来上がっていたので、別の存在のようにしか感じられませんでした。わたしの中で、このファンタジーの登場人物に対する見方が既に形づくられていたということなのでしょう。
「視座」という言葉があります。大小いくつかの辞書を見ると、ほぼ共通するのが「見方の基礎になる立場」で、ほかに「視点」、「観点」、「姿勢」といった解釈が並んでいます。要は、どこから見るかという、その場所、すなわち座ということです。
わたしたちは、意識の有無にかかわらず、さまざまな物事を体験しています。視座は、その、見たり、聞いたり、味わったり、感じたりしている多様な事柄によって形成されていきます。つまり、広い意味での学びによって視座がつくられていると言えます。ですから、視座は必ずしも固定的なものではなく、変化する場合もあります。
誰もがまったく同じことを体験している訳ではありません。学んでいることは実に千差万別です。したがって、養われる視座には差異が生じます。たとえ学んでいることが同じであったとしても、他の要素に違いがあれば、異なる視座がつくられます。あることについて、ある人が一つの判断をし、同じことについて、別の人が異なる判断をしたとしても、それは、まれなことでも不思議なことでもないということです。
そこで、人によって、同じ人でも時と場合によって、視座が異なるということと、いま自分がどのような視座に立っているかということを知ることが重要です。知るためには、視座について、折に触れて意識することが必要です。
ところで、「指輪物語」にガンダルフという魔術師が登場します。彼には「灰色の魔術師」という異名があります。そういえば、アガサ・クリスティの生んだ名探偵エルキュール・ポワロは「灰色の脳細胞」を持っているということです。トールキンとクリスティが込めた意味は知りませんが、「灰色」とは、「白」でもなく「黒」でもないものがあることを知っているか、と問いかける言葉のように感じます。
さて、学校経営、授業の在り方、何か課題のある児童生徒への指導、教職員の働き方、保護者との関わり、ほかのどのようなことに関しても、自分として考えることがあるとします。それは、とてもだいじです。それをだいじにしつつ、それ以外に別の見方や考えはないだろうかと思いを巡らせてみてください。
灰色の視座。自分の視座をしっかり把握し、そのうえで拡幅や移動、変形をしてみることが、多様であることを認め尊重するためにも重要ではないかと思います。