NITSニュース第225号 令和5年12月8日

外国につながる子どもたちの教育は日本語指導をすること?

広島大学 准教授 南浦涼介

社会的にも認知されるようになった外国につながる子どもたちとその教育ですが、まだまだ誤解もたくさんあるようです。外国につながる子どもたちと言われると「日本語指導」という言葉がついてきます(実際この原稿の依頼を受けたときも「外国人児童生徒等に対する日本語指導について」でした)。ただ、「外国につながる子どもたち」という対象を「日本語指導」という解決法で捉えようとする発想は、実は大きな誤解を与えかねません。どういう視点が必要か、以下の点を見てみましょう。

「できなさ」よりも「堪能さへの可能性」を

まず、「外国につながる子どもたち」は日本語ができないというイメージを先行させがちです。しかし、日本で生まれた外国につながる子どもたちから、つい最近海外から転入してきた子どもまで多様に存在し、「日本語」の堪能さは人によってまちまちです。それをすべて「日本語ができない」と全てを「できなさ」で捉える風潮は大きな誤解です。母語にも日本語にも堪能で、複数の国や社会、文化を比較しながら捉える強さや賢さを秘めた子どもたちだという認識を持つ(その上で日本語はまだまだ勉強中でもある)ことがまずもって重要です。

「言葉の形の付与」よりも「言葉の表現を磨く」ことを

その上で「日本語指導」という言葉が持つイメージを変える必要があります。多くの人は自身の英語学習経験から、日本語指導を外国語学習のように捉えます。その結果「日本語もわからない子どもに日本語を教えることなんてできない」とまるでこれまでの教師経験が全く通じないような捉え方をしたり、とにかく文法や漢字学習に時間を割いたりすることがあります。しかし、英語におけるアルファベット26文字とは異なり、ひらがな・カタカナ・漢字・ローマ字と多様な種類の何千字もの字形の獲得には時間がかかります。本来人生の中で獲得していくわけですから、「できなさ」を見つめすぎて文字や文法のといった書字、言葉の形を付与しようとしても、焦燥感に子どもも教師もさいなまれがちです。よく考えてみれば、子どもたちは日本語指導の時間以上に、学校や地域で日本語を通して生活をしています。そうした中で言葉(文字ではなく文体)の表現をよりよく磨いていくことがむしろ重要です。その点では「外国語の学習」の視点以上に「学校における言語活動」の視点と似た発想が大切です。

「日本語指導」よりも「学校カリキュラムのありかた」を

そして根本的には、外国につながる子どもたちをめぐる教育は「日本語指導をどうするか」「日本語教員をどう配置するか」といった「(日本語の)授業整備」の問題ではなく、学校のカリキュラムのありかた総体の問題だということです。「日本語ができる日本人の子ども」を前提としていたカリキュラムを、母語も含めて多様な言葉に堪能な可能性を持つ子どもが存在することをふまえて、どのように「学校全体」で言葉と文化のインクルーシブなカリキュラムを作っていくかが重要です。それがなければ、日本語指導の場を設置しても、教員間で担当者におまかせになってしまいます。そうなると、自分自身の授業や学校行事において使用している言葉遣いに注意を払ったり、子どもたちの母語や文化的資源を使おうとしたりすることには思い至らないでしょう。
日本語指導があればなんとかなるという発想ではなく、私たちは「日本語ができる日本人」を前提として捉えてきたことを見直し、学校と授業全てのカリキュラムのレベルで多様な子どもたちを包めるものになっているかどうかを考えることから進めなければ、結局子どもも教師も楽しくならないのです。