NITSニュース第219号 令和5年9月8日

学校と地域の連携を再考すると… ~語り合えるエピソードから本質を見つけましょう~

大分大学大学院教育学研究科 教授 清國祐二

NITSのメルマガらしくないエピソードから書き始めます。私が小学生の頃(昭和40年代)、なぜだか運動会(10月)で盆踊りを踊って(正確には踊らされて)いました。炎天下での体操着姿の盆踊りは、まったく心が躍りません。2学期が始まるとすぐに婦人会や青年団の方がお見えになって、恒例の踊りの手ほどきを受けました。昼間にお越しいただき、感謝はしていたと思いますが、気持ちは一向に乗らなかったわけです。

そもそも盆踊りは、お盆の夕方、帰省した人たちと一緒に近所の人々が三々五々集まって、櫓(やぐら)のあたりで太鼓や囃子が始まってから、だんだんと浴衣姿の踊り手が円になって踊り始めるものではなかったでしょうか。踊らない人たちも、露店で綿菓子を買って食べたり、金魚すくいをしたりしながら、それなりに一緒の空間を過ごせていました。しばらくぶりの再会も楽しみのひとつで、盆踊り大会が結ぶ縁と賑わいは、先祖供養にもってこいの場となっていました。

このコントラストを思うに、私たち小学生が運動会での盆踊りに前向きな意味を見いだせるでしょうか。運動会のプログラムづくりが児童会の主導でできていたなら、この盆踊りはあっさりと消え去る運命にあったと思います。あれから40数年が経過して、今となっては確かめようがありませんが、学校や地域の側には何か明確な意図や願いはあったのでしょうか。

さて、私の意識が覚醒したのは小学校を卒業してから15年ほど経った、地元の盆踊り大会の夜でした。私の2歳の娘が、櫓の周りの輪の中で踊っている私の母を見つけて、「おばあちゃんだ!」とおぼつかない足取りで駆け寄っていった時のことです。母は婦人会として団体出場していましたので、孫に構っているわけにはいきません。(賞金や商品を獲ることが目的でした。)そのことは私も理解していましたので、すぐに外側の輪に娘を連れ出して、一緒に踊り始めるわけです。「昔取った杵柄」ですので、踊り方を教えたり、踊ったりするのは朝飯前です。

私の身体はきっと何歳になっても地元の盆踊りを覚えていることでしょう。小学生の頃は意味もわからず踊らされていましたが、それは紛れもなく「ふるさと」という苗が心身深く植え付けられたということでした。将来たとえ私に何があっても、ふるさとは優しく受け入れてくれる、そのような確信に近いものをその時に感じることができました。

しかし、このエピソードは同時に、ふるさとを学ぶ、ふるさとから学ぶことの困難さを示しています。ふるさとは絶対的な存在であるものの、相対化できなければ理解には及ばない、手ごわい存在なのです。私が27歳で気づけたことをみんなが経験するとも限りません。もっと早く気づけた人もいれば、未だに何も気づけていない人もいるでしょう。成果が確約されていないのです。それでもなお、未来に信念をもって、運動会での盆踊りを続けていたとするならば、関係者には大きな敬意を感じます。

このエピソードが、短期間で成果が求められる現代の学校に通用するとは思っていません。学校は利害関係者に対してアカウンタビリティ(説明責任)を果たす必要があります。教育活動の必然性を訴え、そこから得られた成果をエビデンス(証拠)として示し、信頼を獲得しなければなりません。その中心に児童生徒がいなければなりませんが、一方でその児童生徒は地域で暮らし、地域は未来に向けて待ったなし(存亡の危機)の状態であったりするわけです。とすれば、学校は地域を含めた全体を見ておく必要があります。

教員の働き方に注目が集まる中で、またコロナ禍によって途切れた連携の見直しによって、学校と地域の関係は転換期を迎えているかのようです。困難なことは重々承知しつつ、学校と地域は、「学校教育目標の実現」と「学校を核とした地域づくり」とをつなぐ「必然性」を見つけ出し、地域の持続可能性と幸福(ウェルビーイング)に思いを馳せられる教育課程を探究しなければなりません。

私のエピソードから始まり、後段は煙に巻くような終末となってしまいました。最後にもうひとつ蛇足をお許しください。教育について語る人は山ほどいます。ただ、教育について責任を果たせる人は限られています。学校と地域の連携・協働は、より多くの人が教育について責任を果たしていける社会づくりにも関わっているはずです。学校に寄せられる無責任な態度と発言が、責任を果たすことに転換するような健全な社会づくりに、我々教員がどのような責任を果たせるのか。現役教員として、私もまだまだ皆さまとともに力を尽くしていこうと考えています。