NITSニュース第209号 令和5年2月24日

情報時代の教育を考える

総合地球環境学研究所 所長 山極壽一

動物に教育という行為はまず見られません。人間に系統的に近いゴリラやチンパンジーにも親が子供に教えることはほとんどないのです。子供はただ、間違ったことをすれば痛い目にあって学ぶだけです。なぜ、人間にだけ教育という行為がこれほど広範に現れたのでしょう。

それは人間の脳が大きくなり始めて、成長期が長くなり始めた頃に端を発すると思います。脳はエネルギーを多く食う器官なので、その分身体の成長に必要なエネルギーを脳に回さなければならず、成長が遅れたのです。そもそも脳を大きくしようとした頃、直立二足歩行が完成していて骨盤の形が皿状に変形し、大きな頭の子供を産めなかったのが原因なのです。そのため胎児の間に脳を大きくすることができず、生後急速に脳を成長させて、12~16歳頃までに脳容量がゴリラの3倍に達するような調整をしたのです。

脳が大きくなったのは、集団規模が増大したからという「社会脳仮説」があります。仲間の数が増えれば、仲間と自分、仲間どうしの社会関係を記憶しておく必要が生じたというわけです。その結果、社会的複雑さが増し、子供の成長が遅れ、共同保育が不可欠になりました。そこで、長い成長期に親以外の大人たちが、子供たちに手を貸して、生きる術を教えるようになりました。要するに、教育は脳の増大の副産物であり、それが社会の規模を拡大し、さらに脳を大きくするというシナジー効果をもったのです。

長い間、教育は家族とその周辺の共同体内部における子育ての一環だったのです。子供たちが信頼を寄せる大人が指導し、教える側は見返りを求めませんでした。教育は未来を担う世代への贈り物だったのです。さらに、教育の現場は共感力を発揮する場であったはずです。子供たちにとってまだ経験のない技術や知識を身につけるには、教える側も教えられる側も身体や心を一つにする必要があるからです。知識や技術は身体化されてはじめて自分のものになるし、それを応用することが可能になるのです。

しかし、現代は教育が制度化され、だんだんと強固なシステムとなって学ぶ教材ばかりが膨れ上がっています。学ぶために必要不可欠な信頼関係が薄れ、数値目標を付けた成果ばかりが求められるようになりました。本当にこれでいいのでしょうか。

Z世代の子供たちは、毎日ネット上にあふれる膨大な量の情報に接しています。個々の好みによってそれは取得され、信頼できる親や教師を媒介せずに身体化されていきます。そこで起こるのは、もはや知識や技術は人を介して伝わらず、情報として取得されていくということです。それは他者と共有する必要すらなく、自分で勝手に利用できるものになっていく可能性があります。
つまり、現代は個人の能力を拡大するように知識や技術が取得されていて、それらが人と人とをつなぎ、信頼に満ちた社会を作るようには生かされていないのではないかと思うのです。これは「自己実現」や「自己責任」を強調して個人をばらばらにし、制度やシステムばかりを強化して「契約社会」を作ってきた戦後日本の負の遺産なのかもしれません。

この状況を打開するにはどうしたらいいのでしょうか。まず、信頼できる教育の場を再構築する手段として複数担任制をとるべきでしょう。担任一人で大勢の生徒の信頼を得るには現場が忙しすぎます。もっと教師の数を増やし、複数の担任で個々の生徒の指導に当たるべきです。さらに、あらかじめ学ぶ内容を資料として与え、対面授業では質問や討論を主体にする「反転授業」を採用したらいかがでしょう。3~5人のグループに分けて討論するのも、みんなが考えていることを理解し合うのに必要なことだと思います。

重要なことは、教科書に書いてあることをただ理解するのではなく、それを仲間といっしょに自分のものにしていくプロセスを、教師がお手伝いするということだと思います。教育は贈与であるということをぜひ肝に銘じて、子供たちの将来をいっしょに作っていきましょう。