NITSニュース第198号 令和4年9月16日

災害の記憶を伝える――『カタストロフィ教育』構想について

東京大学大学院 教授 山名淳

2021年8月、教職員支援機構主催の防災教育セミナーに講師として参加させていただきました。同月2日に首都圏と大阪に新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言が出され、その後も8月中は全国感染者数が最多更新を続けており、オンラインでの開催となりました。多くの遠隔会議形式の講義がそうであるように、私にはレクチャー中に参加者の反応を確認することがほとんどできませんでした。ところが翌日の総括的な議論の時間では一転して、ご参加の先生方の積極的な発言が次から次へと続きました。コンピュータの画面に突然風穴が空いて、その向こう側から熱気が伝わってくる思いがしました。衝撃をともなう新鮮な経験でした。

セミナー終了後、さまざまな感想が寄せられました。印象に残ったコメントの一つとして次のようなものがありました。「セミナーの刺激が新鮮なうちに、防災教育についてすぐにでもあれこれと考えてみたいが、しかしまずは新学期を前にして、新型コロナウイルス感染症対策に追われそうです」と。不安もにじんだこの心情吐露は、本セミナーでの講義内容とも関わって私の脳裏に残りました。

講義では「災害」を広く捉えたうえで、これまで培われてきた防災教育を起点として「カタストロフィ教育」のようなジャンルを構想することはできないかという、オープンな問い掛けをしてみました。カタストロフィ、つまり大惨事に関わる出来事は多様です。自然災害のみならず、戦争や迫害、巨大なシステム破綻や事故、また、地球規模の環境破壊なども思い浮かびます。
防災教育、平和教育、科学教育、環境教育はそうした事態と関わりますが、そこではカタストロフィの「種類」に基づくすみ分けが生じている感は否めません。私が提案させていただいたのは、それらの重なり合う部分について相互に対話を試みるということでした。たとえば、生じてしまった大惨事の記憶を次世代に継承する際に、有効な方法や留意すべきポイントなどについて、各ジャンルの知見を共有して相互に参照できるように思います。

講義では広島の「原爆の絵」プロジェクトについても紹介しました。同プロジェクトは狭義の防災教育のうちに含まれる実例ではありません。また、芸術に関わる生徒が参加するこの試みは、どこでもだれでも、まねができるものというわけではありません。それにもかかわらず、講義にご参加いただいた先生方は同プロジェクトに触発されて、防災教育に当てはめるとどうなるか、自分たちの地域に置き換えてみると何が可能であるか、ということについて建設的にさまざまな気づきやアイディアを出してくださいました。
このように、通常は平和教育に割り当てられる教育実践と防災教育とを行きつ戻りつしながら、思案することを通して、「カタストロフィ教育」というより大きな枠組みが輪郭をもって生じるのではないかと思うのです。

「カタストロフィ教育」という新たな「○○マルマル教育」をまた一つ増やして、学校現場の負担を増やそうとしているわけではありません。願いはむしろその逆です。先に挙げた複数の「○○マルマル教育」の共通部分を個別に扱う代わりに、その重複部分を意識することで、その全体を少しコンパクトに、なおかつ体系的にデザインし直すこと、また、それによって学校現場の負担縮減にも寄与すること、そうしたことができないかと期待するのです。
たとえば、冒頭でふれた感想文に示唆されていたように、通常は防災教育とパンデミックへの対応は別々のものとみなされがちですが、それらを包括するような枠組みができないかと考えています。
「いや、そんなにうまくはいかないよ」という声も聞こえてきそうです。「カタストロフィ教育」は今のところ机上の空論の域を出てはおりません。私は理論畑の人間です(たとえば山名淳・矢野智司編『災害と厄災の記憶を伝える――教育は何ができるか』勁草書房、2017年)。先生方の教育実践の経験を踏まえたご意見やご発想にふれながら、これからも考えてまいります。