NITSニュース第122号 令和2年2月28日
道徳教育の推進のために
大阪教育大学 名誉教授 藤永芳純
① 道徳教育の意義-「道徳性」の育成
人間は、持てる資質・能力を駆使し、さまざまな価値を追求し、成果を蓄積し、後継者を育ててきました。 おおくくりに整理すると以下のように提案できます。(空欄は検討中)
目標にしてきた価値 | 真 | 善 | 美 | 聖 | 健康 |
---|---|---|---|---|---|
価値追求の資質・能力 | 知 | 意 | 情 | 信 | (空欄) |
蓄積してきた成果 | 学問 | 道徳 | 芸術 | 宗教 | (空欄) |
資質・能力の育成 | 知育 | 徳育 | 美育 | 信育 | 体育 |
ただし、これらのすべてが同じ次元で議論はできないでしょう。
「高度な数学が分からなくても、またピカソの絵が理解されなくても、さらにはアウグスティヌスの信仰の深さが了解できなくても、非難はできない。だが、道徳的な行為がなされないときは、人間であるかぎり、ひとは誰でも非難される。そして人間として分からねばならない善の認識が欠けていたと批判されるのである。」(河野眞「悪の倫理学的研究の意義」『人間と悪』以文社、1987年)
優秀な知性はときに人間を滅ぼす技術を産みだしました。芸術、宗教が人間を迷わせることがありました。 「人間とは何であるか、いかに生きるべきか。」という問いを根底で支える「道徳性」が不可欠の資質・能力として獲得されなくてはならないのです。 あるいは、「人間がたどるべき筋道」に光をあてる誘導灯・管制塔としての「道徳性」が確立されていかなくてはならないのです。
それゆえ、広義の道徳教育は「全教育活動を通して」実践されることが要請されます。 各教科・領域の指導では、「分からないことを、分かりたい。」「知ったかぶりをしない。」という子どもたちの願いの実現を目指し、一回ごとのすべての授業が「真理・真実への誠実な敬意」に基づいて実践されるべきであります。
② 道徳科の意義-「要」の実践
「道徳科」は全教育活動における道徳教育の「要」とされています。低学年用教材の「はしの上の おおかみ」の例で考えてみましょう。
おおかみは一本橋で出会う相手を「もどれ、もどれ」とおどし、いじわるをして面白がっていました。
ある日、くまに出会います。自分がいじわるされると思ったおおかみは、「これはこれは、くまさんでしたか。わたしがもとへもどります。どうぞおさきにわたってくださいな。」とへつらいます。
しかし、くまは、「いやいや、おおかみくん。それにはおよばないよ。ほら、こうすれば、いいのさ。」と、おおかみをだきあげて、うしろへそっと おろしてやりました。おおかみは、くまの後ろ姿をいつまでも見送ります。
翌日、うさぎが橋を渡ろうとしておおかみに会います。「あれ、いけない。」とうさぎはあわてて ひきかえそうとしますが、おおかみは声も優しく呼び止めます。
「いやいや、うさぎくん、それにはおよばないよ。ほら、こうすればいいのさ。」と、うさぎをだきあげて うしろへそっと おろしてやりました。
くまのまねです。おおかみは、とても「いいきもち」です。「これにかぎるぞ。」きもちが はればれと しました。
この物語が成立するためには、おおかみが自分に向けられた「くまのやさしさ」に気づいて、その事態を自分に受け入れる「こころの器」をもっていることが必要です。 これがなければ、「ラッキー。いじわるされずにすんじゃった。」というおおかみがいて、あいかわらず弱い相手にいじわるをしていました、ということになりかねません。
この「こころの器」は、日常の全教育活動における道徳教育の成果としての「道徳性」といえます。 この「こころの器」に盛り付ける献立(道徳的価値の具体)を通して、「要」としての道徳科の授業は善への志向を確たるものにする手続きになりうるのです。