NITSニュース第105号 令和元年10月11日

子どもたちを不幸にさせないために~いじめの隠蔽問題を通して考える

高崎市教育委員会教育長 飯野眞幸

「月刊教職研修」(教育開発研究社)からいじめの隠蔽をめぐる問題に関する特集の執筆を依頼されました。 私が担当するのは「意図せず、『隠蔽』と捉えられるケース」に関する部分でした。 依頼された字数は1,900字で、特に長いものではありませでしたが、脱稿するまでの約1カ月、苦しい作業でした。 その「教職研修」10月号は既に発売となりましたが、いろいろな反響をいただいています。

私は、教職員支援機構の前身である教員研修センター時代からいわゆる中央研修に関わり、このリスクマネジメントや学校組織マネジメント、いじめ問題指導者養成研修、生徒指導等の講義を、また、公立大学において生徒指導論の講義を担当してきました。 いわゆる研究者としての立場と地方教育委員会の責任者である教育長(9年目)としての立場をもっています。 研究者の立場に立てば、客観的データ等に基づいて持論を展開すればよいわけですが、教育行政を預かる立場を考えると、管内の学校が、あるいは教育委員会が、もしかすればそのような問題の指摘を受ける可能性があるわけで、それを考えると、非常に難しく、苦しい執筆となったわけです。 雑誌の編集部には当初執筆をお断りしたのですが、担当者の熱意と、私の書く原稿によって少しでも不幸な問題が防げるならという気持ちで最終的にはお引き受けしました。

辞書で「隠蔽」を引くと、「人または物が目につかないようおおうこと。かくすこと。」(広辞苑)とあり、明らかに人間の意図が働く行為です。教育に限らず、世間一般でもよくあることかもしれません。 それではなぜ「隠蔽」が起こるかと言えば、一般的には自己の保身や組織の防衛という側面が大きいのではないでしょうか。

教育の世界においてこの「隠蔽」が指摘されるのが圧倒的にいじめ問題です。 ここ1~2年の間で特に多く報道されていますが、過去も隠蔽とされたり、疑いを持たれたりした事案は数えきれないくらいありました。 私は長年いじめ問題に関わってきましたが、いじめ問題が隠蔽と関連づけられて報道されることが多い理由や背景として最大のものは、言葉は悪いですが学校や教職員の鈍感さにあると思っています。

換言すれば学校や教職員にいじめはいのちに関わる問題で、場合によればいのちを奪う問題であるという認識が薄く、初動においてきちんとした対応ができていないという点に尽きると思っています。 その結果全て後手後手に回ってしまい、それを繕うために恣意的な発言をしてしまったり、重要文書を紛失・破棄してしまったりという事態に発展し、関係者の神経を逆撫でし、訴訟になるケースもあります。 私は、このような事態を防ぐための唯一の方策は、教職員一人ひとりが研ぎ澄まされた感覚をもって児童生徒や保護者等と真摯に向き合うことしかないと思っています。

「教職研修」10月号では、導入部分に、作家の鎌田 慧さんの著書「いじめ自殺―12人の親の証言」(岩波書店)の一節を引用させていただきました。 鎌田さんはいじめ自殺をしたとされる生徒の保護者への聞き取りをする中で、「隠蔽」を含む校長や教職員の不適切な対応について「醜いというしかない。もっとも反教育的な対応を、学校は子どもたちの目の前で実演して見せているのである。」と断じています。 鎌田さんの指摘されたこのことの重みは非常に重いものがあります。

いじめへの対応はもちろんのこと、体罰やわいせつ事件等を含め、お互い、子どもたちを悲しまさせない、決して不幸にさせないという決意をもって日々の業務に当たっていきたいものです。