NITSニュース第211号 令和5年5月12日

忘れてはならないのは

独立行政法人教職員支援機構 理事長 荒瀬克己

知らなかったことを知る。分からなかったことが分かる。できなかったことができるようになる。そんなとき子どもは、すてきな笑顔になります。それはきっと、おとなも同じです。学べば、それまで気がつかなかった自分に出会うことができます。だから、うれしくなるのでしょう。そのような経験を繰り返し、積み重ね、人は成長していきます。
人には学び、成長する権利があります。『日本大百科全書』(小学館)の、宮﨑秀一氏の学習権に関する記述の一部をご紹介します。

日本国憲法上の根拠は「ひとしく教育を受ける権利」(26条1項)に求められるが、この文言は外から一定の教育プログラムを与えられるというニュアンスが強く、実際、制定後しばらくは、能力ある者への上級学校進学機会の保障と解された。
1960年代後半以降、教育法学においては、教育学の成果も踏まえ、人間の発達過程においては学びつつ成長する主体の自主性・自発性が不可欠であることを重視して、この権利を「学習する権利」と再定義した。以後、この解釈は学説・判例上定着し、最高裁判所も「この規定(憲法26条)の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる」と述べるに至った(旭川学力テスト事件大法廷判決1976年5月21日)。

憲法の「ひとしく教育を受ける権利」が、学び手の「自主性・自発性」を重視して、「学習する権利」と再定義されたこと、また、最高裁大法廷の判決においても「学習をする固有の権利を有する」と述べられたこと。これらは「教育学の成果も踏まえ」てのことだとしています。そこには幾多の貴い実践が含まれているに違いありません。

さて、そうしてなされた再定義であるとして、現状において学習権が関係者に共有され、学び手が実質的に行使できているでしょうか。
この間、今後の学校教育の在り方に深く関わる令和3年答申(*注1)が「学習観」の転換を掲げ、令和4年答申(*注2)では、新たな教師の学びに向け「研修観」の転換が示されました。何を学ぶか、どう学ぶか、どんな力をつけるか。学びは、子どももおとなも「相似形」であると捉えつつ、わたしたち教職員支援機構もまた、新たな研修の在り方を模索しています。

学習指導要領解説【総則編】では、「主体的・対話的で深い学び」についての説明において、「生涯にわたって能動的(アクティブ)に学び続けるようにすることが求められている」と述べています。生きることは学ぶことであるという認識でしょう。
そのための学びをつくることは容易ではありませんが、忘れてはならないのは、子どもの学びについても、教職員の学びについても、学習権を尊重して取り組むということです。
何をするのが学校か。何のための教育か。それらの問いにつながるからです。

(注)