NITSニュース第43号 平成30年6月1日

コンプライアンスの時代

日本女子大学 教授 坂田仰

理想と現実の乖離

「指導の一環として行った」。体罰が発覚する度に繰り返されるフレーズである。だが、学校教育法は制定以来一貫して明確に体罰を禁止している。この間、法的には一瞬たりとも体罰が指導の方法として容認されたことはない。

とは言え、「子どものことを思って行う愛の鞭は例外」という雰囲気が、学校現場のみならず、日本社会全体に存在していた時代があったことは確かである。

体罰をめぐる刑事事件において、「教師は必要に応じ生徒に対し一定の限度内で有形力を行使することも許されてよい場合があることを認めるのでなければ、教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがある」ことも否定できないとした判決さえ存在している(東京高等裁判所判決昭和56年4月1日)。

体罰を絶対的に禁止するという法制度と愛の鞭論による体罰容認、長らくの間、日本社会に存在した、理想(体罰禁止)と現実(体罰容認)の乖離である。

言うまでもなく、その背後には、法よりも愛や情熱、信頼関係に基礎を置くべきという、どちらかというと情緒的な教育実践、学校経営が存在していた。

学校教育の法化現象

しかし、価値観が多様化する中で、情緒的な学校経営、教育実践を批判し、法をしっかりと遵守すべきという考え方が台頭している。権利・義務の関係から学校と向き合おうとする保護者、地域住民の思考、いわゆる学校教育の法化現象である。

いじめ防止対策推進法の制定、特別支援教育に対する障害者差別解消法に基づく合理的配慮の義務づけ、改正個人情報保護法に根拠を置く要配慮個人情報というカテゴリーの新設、これまで学校毎の判断、教員の専門性に委ねられてきた領域に、法による統制が確実に浸透している。学校現場への法の越境である。

保護者、地域住民の価値観が多様化した現在、学校運営、教育実践に唯一の解を見出すことは困難である。昭和の時代、多くの保護者の間で共有されていた考え、「学校の判断だから」、「先生の言うことだから」受け容れようという発想は大きく後退した。「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」とする教育基本法第10条の理念が、現実の学校現場で貫徹され、学校、教員の考え方よりも、個々の保護者の価値観を優先すべきという権利主張が、確かに勢いを増している。

コンプライアンスの確立へ

では、学校現場はこの状況とどう向き合うべきか。まず、教員が個人の価値観、判断に基づいて関わるのではなく、学校がチームとして子どもの教育に関わる体制を構築することである。

そして、危機管理の分野においてチームを動かす指針として機能するのが、教育法規であり、それを支えるガイドラインである。

いじめ防止対策推進法を例にとると、同法は、全国津々浦々の学校がいじめ問題と向き合うためのスタンダードである。そして、同法に基づくいじめの防止等のための基本的な方針(平成25年10月11日文部科学大臣決定(最終改定 平成29年3月14日))は、それを具体化したガイドラインとしての性格を有している。

近年、裁判所は、学校教育紛争を扱うに際して、「ガイドライン」を重視する傾向にある。ガイドラインを無視していた場合、多くの事案において学校側が敗訴する傾向が見られる。逆に、ガイドラインに沿った対応が取られていた場合、学校側が勝訴する可能性がより高まっていく。

法規、ガイドラインをベースとした学校運営、教育実践、すなわちスクール・コンプライアンスを確立することが、学校の危機管理に向けた第一歩と言える。法は学校経営や教育実践を縛るだけのものではない。価値観が多様化する時代において、むしろ、学校、教員を守る存在と見るべきである。